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三十にして立つ、しかして惑えよオカダ・カズチカ

表現は人によって様々でしょうけど、今現在新日本プロレスのオカダ・カズチカ32歳は”惑い”の中にあるのは確かでしょう。
少し前にもコスチュームを大幅に変えて「オカダはどうしたんだ?」と心配されたのも記憶に新しい中、2020年にはその代名詞でもある必殺技・レインメーカーを突如封印し、変型コブラクラッチを主体とした戦法に変化。
2012年に凱旋して九年、その中で確立しきったスタイルを半ば捨てての新スタイル模索は発展途上のレスラーならまだしもIWGPもG1もNJCも、プロレス大賞もPWI500も、団体内外のタイトルを総なめした選手としては正気の沙汰ではないようにも見えます。

ここで一つ孔子の言葉を引用すると

子曰く、吾十有五にして学に志す、三十にして立つ四十にして惑わず
(論語・為政より)

割と有名な言葉ではありますが、簡単に現代語訳すれば「私は15歳で学問を志し、30歳で学問の基礎ができて自立し、40歳で迷うことが無くなった…」という感じ。
この言葉をもって40歳の事を「不惑」と呼んだりもするわけです。
これを逆に解釈すれば基礎ができて自立する30歳から不惑に至る40歳までの30代というのは惑う期間に当たるわけです。
基礎ができたからこそ試行覚悟をして方向性と可能性を探ることができるということでもあるわけで、これはプロレスにおいても同様じゃないかなぁと思うわけです。

つまり今現在のオカダ・カズチカ32歳はまさに「惑い」の期間なのでは?という推測なのですが、推測であればだれでもできる。
ということで今回は同じく「惑いの期間」を経験したと思われる先輩レスラーについて振り返りつつ、オカダさんも惑うにしてもどう惑うべきかについて考えを及ばせたいと思います。

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オカダ・カズチカはどこへ行く

 

棚橋弘至

まずは現世代の日本のレスラーの目標の一人ではあるであろう棚橋弘至
棚橋自身も2006年に29歳でIWGPヘビー級を獲得し、翌年2007年に30歳で悲願のG1初優勝を遂げるなど実績面で新日本の頂点を極めていたと言ってもよいでしょう。
しかしそんな新日本の中心人物になった棚橋も翌2008年にIWGPを陥落して以降しばらくIWGP戦線から遠ざかることに。
新日本のリング上での活躍のみを考えればある種時間を無駄にしているとも言えますが、この期間に棚橋はある種得難い経験を積むわけです

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ヒールとして目覚めた棚橋 (2008.4.9)

(新日本プロレス公式サイトより引用)

後年の棚橋や棚橋を見続けたファンも重要な経験だったと振り返るのは2008年の全日本プロレス・チャンピオンカーニバルへの参戦
新日本と全日本は当時こそ全日本プロレス社長・武藤選手の存在もあって交流があったわけですが、ジャイアント馬場・アントニオ猪木の時代からのライバル関係にある団体。
行ってみれば棚橋はライバル団体に飛び込んでいったわけです。
当然立ち位置は新日本とは真逆のド悪役になるわけですが、棚橋はその環境の変化に戸惑うどころかむしろ観客の憎悪を・ヒートを操るような場面まであったとか。

それまでは(チャラ男キャラで嫌われる面もあったとはいえ)あくまでもベビーフェイスだった棚橋にとって、新日本では決して得ることのできない環境。
ここで得た経験があったからこそ、後年オカダや内藤らに対する壁となり、「キラー棚橋」とも表現される怖さを表現できるようになったともいえるでしょう。
そういったふり幅が棚橋の一選手としての評価及び深みを増させているのは疑う余地がないでしょう。

この他にも棚橋は年末にTNAへ遠征し、菅林当時社長が直々に渡米してIWGPへの挑戦を要請しても拒否するなど、あえてIWGP路線から遠ざかる行為もしています。
こうした溜を経て、翌2009年東京ドームでは師匠・武藤敬司からIWGPを奪還し、押しも押されぬ”エース”としての地位を確立することになります。

中邑真輔

続いてオカダの兄貴分でもある中邑真輔
中邑は現在も続くIWGPヘビーの最年少戴冠記録保持者(2003年12月)であり、東京ドームのメインにも幾度となく上がった早熟のレスラーなのは間違いなく、ある意味現在のオカダとも経緯は近いかもしれません。
その中邑のキャリアも2010年5月(当時30歳)に真壁を相手にIWGPの防衛失敗してからIWGPから縁遠くなります。

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有言実行でメキシコで”変身”して帰ってくることになった (2011.6.11)

(新日本プロレス公式サイトより引用)

中邑自体は2009年からCHAOSを結成しヒールターンを経験していたのですがそこからさらなる変化が起きたのが2011年のこと。
5月に永田の持つIWGPに挑戦失敗した翌月、中邑は単身メキシコに遠征
中邑の自伝なんかではここで自由にふるまってみたことが後のアーティスティックともクネクネとも呼ばれる独自スタイルの構築につながったとのこと。
残念ながら当時の試合詳報なんかは公式サイトには残ってないんですが、わずか1か月の遠征とはいえ得たものは大きかったかと。

その後の中邑は2011年にG1をはつせいは、2012年には後の代名詞になるICを獲得、2013年に伝説の桜庭戦…とまさに独自の世界観を構築し始めます。

内藤哲也

新日本プロレスでのキャリアではオカダの先輩、でもレスラーとしてはオカダの方が先輩というちょっとややこしい関係でもあるのが内藤哲也
内藤さんに関しては上記の棚橋・中邑に追いつき追い越せと急成長してきた選手でありましたが、2012年のオカダの登場、それに畳みかけるようにおきた自身の長期欠場が重なって一気にトップ戦線から離脱。
何とか復帰して2013年にG1を初制覇するもファンの指示が付いてこず、2014年のドームではファン投票によってセミファイナルに試合が降格し、試合も敗戦、その後NEVERも陥落すると32歳の年は良いとこなし。

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もはや内藤哲也の代名詞と言っても良い”制御不能” (2015.6.15)

(新日本プロレス公式サイトより引用)

そんな内藤にとって間違いなくキャリアの節目になったのは2015年、33歳の時。
同年5月23日から自身の若手時海外遠征先でもあったCMLLへ一か月の遠征、そこでラ・ソンブラ率いるロス・インゴベルナブレスに加入し、そのまま新日本プロレスへも逆輸入し、後にロス・インゴベルナブレス・デ・ハポンを結成することに。
2015年からはガラリとコスチュームも持ち技も変えて再始動しましたが、実は2015年中に大きな勲章はなく、風当たりも向かい風な雰囲気はあったんです。
しかし2016年にはご存じのように自身初のIWGP獲得も成し遂げ、LIJというユニット自体も新日本随一の人気ユニットに押し上げることに。

内藤自身もメキシコ遠征ではラ・ソンブラたちが自由に気ままにふるまう様子をみて、自身が何かに急かされていたことに気づき、そこから逆に「焦んなよ」というキャッチコピーを生んだなんて話もありましたね。
ある意味中邑と同じく、周囲の声を気にしがちな場合はメキシコの風に打たれると良いとかそういうことかもしれません。

オカダ・カズチカよ、もっと惑え

というわけで思いつく3選手だけですが、後に不動の地位、キャラクター性を得る選手に関しては30代の早い時期に大きな変化を経験しているんですよね。
そういう意味で今現在32歳のオカダ・カズチカが同じように何か変化を求めているというのは伺えるところでしょう。
勿論「彼らがそうしたから…」ということではなく、「彼らと同じ状況に至ったから」というのが妥当な考えかと。
3選手にしても若さと勢いで突っ走ってきた20代が終わり、徐々に下の後輩が出つつも上の選手も健在という間に挟まれた時期、逆に言えば「新進気鋭の若手」というラベルがはがれてしまった時だからこそ、新しい何かを手に入れに動かなければならなかったというのはあると思います。
事実上の三選手はその期間で今後の新しい何かを手に入れたからこそ、その新しいラベルを胸に張ってその後の活躍を進めたともいえるでしょう。
ある意味ここで手に入れるものがその後のレスラー人生を決めるものになりかねない、という。

とはいえ、オカダが必殺技を変えたりしているのはその取り組みの一環ではあるとしても上記3選手と同じように新しい何かを得られるか?というと不十分と言わざるを得ないでしょう。
自身の代名詞を捨てることで新しい何かを、というのはわかりやすい行動ではありますが、現在のオカダが上記の3選手と比較して足りていないものの一つは「外部環境からの刺激」に他なりません。
棚橋は敵地・全日本プロレスの、中邑・内藤は自由な空気に満ちるCMLLの環境から受けた刺激があったからこそその後に活かす変化のヒントを得ることができたと言えるでしょう。
勿論上記3選手は正しい変化だけしているわけでなくそれこそ色々取り組んでみて、後に「一番大きいキッカケだった」とされているのが上述の外部環境というだけなわけです。
実際中邑はCHAOSを結成し、必殺技もボマイェに変更するなどの取り組みがその前にはありますし、
内藤もコスチュームを変えたり新技を開発したり、相手の技をどこまでも受けるような試合をするようになったりしています。(棚橋は当時の試合映像あんまり見たことないのでわからないけど)。
ある種オカダの必殺技の変更もそういった、上記3選手も通ってきた惑い期間の試行錯誤の一つではないでしょうか。

つまり、オカダ・カズチカはここ数年の間に数か月のレベルで新日本のリングを離れ、違う環境に身を投じる必要が、少なくとも上記の例を見るに、あると言えるでしょう。
しかし現在は国内外は勿論国内での移動すらままならない状況というのもあってすぐには無理そうですね(だからこそ新日本のリング上でガラッと試合の組み立てを変えてみたりしているのかもしれない)。

しかし、正直言って団体内で試行錯誤を行うだけでは結局変化なぞはできないのです。
それは刺激の有無もありますが、現環境はオカダ・カズチカが「あのオカダ・カズチカ」であることを望み続けるわけですから、それが評価が高かっただけに一層。
その「変化を留まらせようとする環境」からの逸脱こそオカダさんにとって必要なのではないかな、と思ったりもするわけです。
(とはいえ今のオカダさんが他のリング行って「あのオカダ」を求められないなんてことがあるか?という気はするけど)

まぁ私はオカダファンでしかないので、どう変化をしようがなんとか解釈をしようとするだけではありますが、
それでも「そんなオカダが見たいか?」とするなら「オカダ・カズチカが『こうありたい・こうなりたい』と思っているオカダ・カズチカ」なわけです。
それこそ兄貴分の中邑真輔自身が以下のような言葉を2009年に発しています。

中邑「 生きたいように生きる! なりたい自分になる! それがプロレスラーだろ! 

(2009年11月8日 東京・両国国技館 棚橋弘至を下してIWGPヘビーを防衛したリング上で)

こう言った中邑自身も(おそらく)自分がなりたかった自分を表現でき始めたのは2011年ごとのことだと思いますし。
今回はきっかけとその変化だけを述べましたけど、3選手にしたってその比じゃない期間の惑いの期間を超えてなりたい自分に至ったわけですし。
どれほど惑おうとも「オカダ・カズチカがなりたいオカダ・カズチカ」を我々に見せてほしい、それが一ファンとしての思いです。

(本人は全然そんなこと考えてなかったらどうしような?)